Ch.コール(Univ. d'Illinois)・G.ライユ(Univ. d'Ottawa)

文化行動としての科学 … スポーツ学の研究対象の揺さぶり …

国際シンポジウム「STAPSの社会的意味」1993年6月11・12日、ニース

 この研究において私たちは現代科学批判のきわめて一般的な全体像を概観し、その問題点を指摘することにより、スポーツ概念とその研究領域と目されている領域に揺さぶりをかける。この試みは、スポーツを含む日常的文化行動(pratiques culturelles) が科学・技術から借り物をしているという事実認識の強まりも一部視野に入れている。したがってこの試みは文化ではない科学なるものの否定、ならびに、文化的行動、文化そのものとしての科学の肯定ということを提案する。このセミナーが掲げるような《科学と文化》ではなくして、文化としての科学という意味である。

近代主義的科学観

 科学や文化について論じること、科学を文化の外に置いて、文化の下に置いて論じることは、それ自体、人為的二分法にもとづくものである。このような分割の仕方は、科学概念と文化概念を互いに排他的かつ固定的で明確に区分されたものと理解させる。科学を文化形態として捉え、文化の観点から捉えようとする試みは、非常に多様な諸問題、とりわけ文化行動の領域と全体像としての科学観そのものをめぐる諸問題と関わる。私たちの視野は《ポスト近代主義》と見なされ、近代思想と科学といった問題の再検討を含むことになろう。
 科学史は近代科学がどれほど啓蒙の時代に端を発する関心事に浸りきっているかをよく示している。また、近代科学がどれほど自らの語法によって真実とか進歩とか解放といった概念を正統なものとさせたかを示している。近代主義の関心事は、一方では、経験的方法から出発する真実の探究ということであり、他方では、終わりなき進歩発展を前提とした人間存在ということであった。このような進歩信仰は科学思想への信念、普遍的現象の実在性、因果関係の説明、偉大な理論などと結びつけられ、科学的なものを越えて、生物物理学の可能性を構想させたり、秩序体系を構想させたり、社会の規律化ないし《調和実現》を構想させたりした。こうした規範化・規律化の実行計画についてはミシェル・フーコーがよく描いている。(性の歴史、狂気と文明、監視と処罰など)近代主義のこれ以外の関心事としては、言語と科学の分離、あるいは対象世界を記述するための客観的手段として言語を利用し得るという考え方がある。(これまた1966年、フーコーが『言葉と物』で描いている考え方である。)こうした事物の表象に関する経験論にはその認識論的前提がある。アルキメデス的観点によれば、科学の実践者たちは全能かつ客観的観察者として、自分たちの研究対象に対して中立的まなざしを集中することができる存在である。こうした観察者の認識論は観察対象と観察主体を完全に分離し、科学者自らが文化の上に立ち《論理の道筋》(trafic discursif) の支配者となることを独占的に許すのである。(Haraway, 1988; Terry, 1989)

科学の新しい問題点

科学批判論のリストは限り無い。しかし歴史的に最もよく知られている科学批判論は、ポパー、ニーチェ、フランクフルト学派などのものであることは間違いない。これらはしばしば、構造主義、ポスト構造主義、ポスト近代主義、あるいはこれらにまつわる理論問題などとの関連性と反論である。 (例えば、バタイユ、アルトー、デリダ、フーコー、テルク集団、バルト、最近では、ボードリアール、リオタール、ドルーズとガタリなどの論を考えよ。) 勿論、女性解放論もこうした潮流に含まれる。その思想的起点と終点には色々な理論が噛んでいるが、これまた科学に関する問題と新しい視座を提起している。(cf. Bordo, 1990; Cole, 1991, 1993; Haraway, 1988, 1990; Harding, 1986, 1990; Keller, 1989, 1992; McNeil & Franklin, 1991; Tuana, 1989).
私たちの文化の視座 (それはポスト構造主義なのか女性解放論なのか当面問題ではない)はまず、科学も科学者も彼らが社会空間に意味を与える手段としての範疇や事物の表象の外側とか上位に位置することはできないという前提から出発する。私たちにとって、科学が文化の内部に組み込まれていることを否定することは、科学が崇高なる権力を享受することを認める仕業の共犯者となることを意味する。したがって、科学が大文字のSの科学であり、諸知識の客観性を前提とする産物という意味での科学でありというのであれば、実在と真実の対応の上に構築されたものとしての科学であると考えなければならない。ここに、文化の分析を挿入することの重要性が生まれる。(Balsamo, 1991; Cole, 1993; Cole & Birrell, 1986; Haraway, 1985, 1990)
 文化の分析は科学の化けの皮を剥がし、その文化形態をよりよく示し、もう古くなってしまった諸問題を再検討させる。例えば、超越的真実など、今ではもう論議の対象とはならない。しかし、真実が生産される過程については論議の対象となる。これに並行する問題も出てくる。その真実なるものは誰が決めたのか、誰の利益のために決めたのか。誰が科学を管理しているのか。どうやって、誰によって誰のために知(les savoirs) は管理されているのか。またもし科学が、文化を見る有力かつ権威ある視座だというのなら、いかにして科学的真実なるもの、科学の意味、科学の知なるものの有効性を証明するのか。いかにして反論の材料となり得るのか。事実、より根本的に《科学》は存在し得るのか。もしそうだとしたら、その科学の言葉は、目的は何であるべきか。その意味は何であるべきか。

スポーツ学(études du sport) の研究対象の揺さぶり

 科学と文化を別個に論じることが困難であるのと同じく、スポーツを科学と別個に論じることも困難である。スポーツは単なる記述の言葉であり歴史や言語ないし科学の外側に位置する分類枠などではない。スポーツは現に、政治や科学や技術、医学やメディアなどの領域に挿入され、歴史的流動的に構築されたものである。そしてこれらすべてのスポーツの場が文化の一部なのである。
 現代の科学批判論 (ポストマルクス主義、文化学、女性解放論など) はスポーツを研究対象と見なしており、どれもがスポーツに対して、社会的影響力、政治的影響力、支配、イデオロギー、抵抗運動、変移可能性などに関連する諸問題が考察されるべき空間であると考えている。しかしこうした視座から繰り出される批判論のほとんどが、その理論的介入によって生じる《危機》という面から論じていない。この危機は揺さぶり(déstabilisation) によって顕在化し、何らかのスポーツ観が日常的思考・認識・真実探究の方法を生産し始めるときに始まるのである。またこの危機は、スポーツ科学一般、とりわけスポーツの社会科学を構造化する問題を限定的に考える手段をももたらすのである。
 ここで私たちがスポーツについて述べている理解はむしろ理論的政治的な理解である。何故なら、私たちはスポーツの概念化一切が、権力=知、意味=政治の二項関係を前提とし、さらに権力論、権力執行方法とその機構 (私たちの社会ではこの機構が自由かつ、ないし、抑圧的であることを特徴としている)、そして抵抗と変革に対抗する戦略論などを前提としているのである。
 理論的介入によって生じた最近の危機は、有効性をめぐる知的作業(スポーツ科学の幻想的かつ、ないし、規律的世界)を区分する枠組みにまで必然的に及んでいる。その上、この危機は《スポーツ》の、内的に登録され構造化された知的アイデンティティーを無方向なものとしている。こうした批判論の影響の一つは、獲得した知識とそれを登録する枠組みを疑問視する《私たちの》思考習慣、を俎上に乗せるということに及び、そうすることがスポーツ科学であり、それが《私たち》の知的アイデンティティーであると考えさせている。
 こうした危機状況は勿論、スポーツ科学にのみ見られる独自の危機ではない。むしろそれはポスト構造主義・ポスト近代・ポスト規律化の時代におけるすべての学問領域が直面している危機の一つの現れにすぎない。この危機状況が(国を問わずある程度において)スポーツ諸科学において顕在化していないという事実は、スポーツならびにスポーツに関わる研究領域の境界線やスポーツに関わる知識を支配する概念化の状態を物語っているだけのことである。領域にまたがる危機は恐らく広範囲に及ぶ再組織化を招くであろう。それによって、様々な学問領域の境界線が引き直されるか、あるいは少なくとも、もっと相互浸透的なものとなり、もっと歴史的本質に即して一定の一時的で脆い同盟関係をもたらすことになろう。
 いずれにせよ私たちは、文化と女性解放の視点でスポーツ学を再検討することが重要であると考える。そして《スポーツ》は、科学、医学、技術、政府、メディアなど多重実践行動(pratiques multiples) を基盤とするディスクールの産物であると理解される。これら多重実践行動は、民族、性、階級、性差別など多重体(corps multiples) を生産すると同時に、相互に浸透し合う。そしてこの多重体は消費文化、規範の技術(分類、位階、主体形成など)によって固められる。その上、私たちの立場では、スポーツが生産する知識と行動は、この先進資本主義社会において、制度的空間の中身とはなり得ないし、またなっていない。それよりむしろ、スポーツは肉体と主観(identités) の生産・再生産の日常的規範行動の中に散逸し表出されている。

政治闘争、文化闘争の場としての肉体

 このような見解から明らかなことは、スポーツは過去も現在も、特別に強力なイデオロギー機構なのだということである。何故なら、スポーツは肉体によって支配されているからである。肉体はイデオロギーの貯留場のようなもので、その表現の意味は生物学と密接に結びついている。フーコーのいう《真実の効果》(effets de vérité) としての生物学化された知識とそれを自然に求めることは、肉体に対してなされるトレーニングや文化的働きかけの痕跡を解消するように作用する。そして肉体の動きはつぎのような幻想をつくることに貢献する。すなわち、肉体とスポーツは政治や文化や経済とは無関係に、透過的なものだという幻想である。ところが現実はどうだ。
 肉体は常に概念の眼鏡で読み取られる。肉体はモード、医学あるいはスポーツ諸科学によって解釈され、メディアによって製造される像と比較されてはじめて捉えられる。《肉体過剰》(Kroker et Kroker, 1987)はポスト近代の社会を構造化している経済過剰と完全に同義となる。肉体は芸術表現(signe) や健康・体力づくり産業によって登録されている。肉体、とりわけ《不可能を可能とする》スポーツ的肉体は、幾兆円もの商取引の場であると同時に道徳的行為の場でもあるソーマ的彫塑的(somatique et plastique) 文化の中の決定的な場を占有している。
 高度なパフォーマンスの世界では、スポーツ的肉体はスピード獲得のために空力設計の衣装に包まれる。踝、首、膝、肩、首と強化ベルトや包帯で硬められる。利尿剤、成長ホルモン、高カロリー食、ビタミン、炭水化物、酸化血、いろいろな薬剤の副作用を受ける。鍛えられるべき部位に分解され、別々に専用のマシンでトレーニングされる。さらに細かく分けられ、膝関節のかわりにテトロン製の関節を入れるなど、要らない部分が切除されたりする。経済的理由ないし政治的理由によって競技者のパフォーマンスは、身体的心理的観点で天性の素質に左右されるようになり、情報科学の分析によって露呈される。高度スポーツのパフォーマンスは個別化されたトレーニング、ダイエット、吸収性の化学物質、そして言うまでもなく広告宣伝とマーケティングなどによって生産される。ポスト近代社会では、肉体は生産手段となり、この手段は究極において生産物の犠牲となる。人間機械は政治・経済機械によって適合化され、ストレスや暴力あるいはスポーツによる健康などの諸問題の解決のための研究は、教育者にではなく科学者と医師の世界に委ねられる。この面では、肉体が駄目になれば、逸早く生産ラインに戻すべく修繕されるのである。そしてこの人間の肉体が使いものにならなくなれば別のバージョンと交換する。ポスト近代のテクノロジーにはそれが可能なのだ。スポーツ制度とメディアが生産する肉体は無限性、自己支配性のシンボルである。肉体は自然物ではなく自我に属するのである。矛盾しているが、肉体的存在をコントロールする合理的自我という観点においてこそ、スポーツ的肉体(corps sportif) の情報化やメディア化、《薬漬け》という諸現象の作用が見られるのである。(cf., Rail, 1991) 自然を疎外する権力のかわりに、技術やテクノロジーばかりでなく社会的経済的政治的システムの下部構造全体を総動員する権力が登場する。事実、ポスト近代の資本主義の文脈におけるスポーツは、テクノロジーとして理解するのが相応しい。フーコー的意味でいうなら、言葉ならびに資本主義的民族主義的家父長主義的社会の必要との対比において肉体を規律化しコンディショニングし、再形成し象徴化する知識と実践の全体であると理解するのが相応しい。(Cole, 1990, 1991)

スポーツ学の新しい問題点

 肉体の文化的産物がスポーツ諸科学の中心問題であるならば、《スポーツ》を制度的形態の中でのみ理解することの是非を検討すること (そのような理解から離れること) が最も肝心なこととなる。この種の概念化は、スポーツが如何に多様なテクノロジーとの関係において、制度的境界を越えるモードに支配されつつ機能しているかを理解する可能性を抑制するものである。科学やテクノロジーを含めて経済的文化的現象において見られるように、スポーツならびにスポーツが取る多様な形態、そしてスポーツの日常的方法は変化してきた。多くの分野へのスポーツ・テクノロジーの解放は現代政治状況の重要な指標となっている。女性解放論の文化研究の旗のもとで発展した新しい主張は《スポーツ》のカテゴリーを再検討し、《肉体》やそれに類する性とか民族とか階級、科学、権力、表象、主体性ならびにこれらの相互関係のカテゴリーを廃棄することを要請している。
 自然と文化、肉体と精神、性とジェンダー、男と女、有機体と機械といった西欧的思考を長い間支配し構造化していた二分法が最近揺れ動いていること、ならびに、薬物戦争、pro-vie 集団と pro-choix集団、臓器移植テクノロジー、SIDA(エイズ) 、性誘導、生命倫理問題、ヒト・ゲノム計画など先進資本主義社会に政治論争が見られること、これらは肉体・権力関係ならびに第一級のイデオロギー資源としての肉体の概念を明確化させる。
 文化行動の総体としてのスポーツは、薬物にしてもエイズにしても、性問題にしても、生命科学や臓器移植テクノロジーにしても、ヒト・ゲノム計画、セックスチェック、スポーツ諸科学などなど、どれもが政治論争と同じ道を辿っている。これらの論争ならびにその背景となる現代的状況は問題の新しい発生を証明するものである。《サイボーグ》の時代、純粋肉体政策、彫塑的肉体、科学的パナプティコン、国家干渉の巨大化の時代に、私たちは、スポーツと運動訓練と身体コンディショニング政策 (その知識、そのディスクール、そのテクノロジーを含めて) がどれほど私たちの日常的生活の中で力を発揮しているか、考え直さなければならない。《肉体のマッカーシズム》〔肉体狩り〕のこの時代、私たちは肝心な疑問を忘れてはならない。例えば、私たちの日常生活に国家が干渉することを正当化するために《スポーツと医療施設》の複合化によって、如何なる種類の実践とテクノロジーが生産されているか。はたして将来、生のまま(génétiques) の肉体でスポーツをすることができるだろうか。このような計画によって、女性はどんな影響を受けるか。このような計画の背後に、民族主義者のどのような下心が秘められているか。監視の技術は《不純》な競技者に対して、あるいはエイズの犠牲となる競技者の相当な数に対して有効性を高めるであろうか。
 より一般的に言えば、スポーツ諸科学に関するかぎり、以上のいくつかの疑問は現実に当てはまる疑問である。例えば、スポーツ諸科学は肉体を捕獲し解釈し記号化し調整し規範化し改善するために、どのように利用されているか。スポーツ諸科学の影響下に、肉体はどれほど文化的製品となっていることか。誰が誰のためにスポーツ科学をコントロールしているのか。スポーツ諸科学独自の知識と意味は如何にして立証し得るか。誰がスポーツ諸科学という言葉をつくったか、どのような意味をもつべきか。こうした新しい諸問題のマトリックスは重大な問題状況の全体像を与えてくれる。これらは、政治、経済、科学、メディアなどの分野に組み込まれた文化行動の総体としてのスポーツに集中する科学の現代批判と必然的にかかわらざるを得ない。


1995.3.2. Trad. par Shimizu Shigeo
『私たちと近代体育』(1970)再考のために