ジェラール・ブロワイエ(Univ. Louis-Lumiere - Lyon II)

APS独自の認識論を求めて、進化論の再検討 … ダーウィンか、ラマルクか …

 このような設問は現実から遊離した「哲学的」すぎる抽象論かと思われるかもしれないが、このセミナーの目的ならびに形態からみて「STAPSの人々」の世界での認識論的考察と関わっている。この世界では、近接領域としての生物学のディスクールが誰にも支持され用いられているように思われるが、これをフロイト的認識(エピステメー)概念から展望してみたい。
 今や、進化論をめぐる論争を蒸し返す時代ではない。しかし、幼年期からの強トレーニングの慣習を巷に見れば、パフォーマンスの才能を賦与された有機体の淘汰可能性を信じるといった最も素朴・野蛮なダーウィニズムを思わせる認識論が横行していることが理解できる。
このことについて今さら水泳チームを優勝させた有名なコーチの言葉を持ち出すまでもないが、その人はこう述べたのである。チャンピオンを「製造する」には、「まったく簡単なことです。卵を詰めた籠を壁にぶつければいいのです。割れなかった卵がチャンピオンです。」
「生活のための闘い」を基本とするこうした認識論は、生命のあるなしに関係なく、事物の形而上学(metaphysique de l'objet) とでも言えるもの(遺伝子情報、最大酸素摂取量など)に由来している。そしてその理論的基礎を生物学者自身が固めつつある。ダーウィン百年祭などはその認識論的根拠を顕示するものである。
 肉体的パフォーマンスに関して、APSはこうしたイデオロギーの追随者であってよいのか。APS自身がフロイト的認識論に影響されているのではないか。

フロイトと主体性の復興

 『精神分析入門』の中の第18講の有名な章句は、余り知られていないが、そこでフロイトは精神分析を、人間の自己中心性(narcissique) の脱中心化(décentration)をはかる第三の革命期として位置づけている。第一の時期はコペルニクスの時代であり、そこではコスモロジーからの脱中心化が起こり、世界の中心であると思う傾向があった人間は、もはや世界の中心ではなくなった。第二の時期はダーウィンの時代であり、そこでは生物学的脱中心化が起こり、最高の生物的本質を有すると思っていた人間は、そうではなく、動物進化の生物学的連鎖を完結する鎖の輪の一つとされた。その後、進化の動きは止まったのかどうか。第三の時期は精神分析学の時代で、人間中心主義への幻滅がその細部にいたるまで浸透し、思考する主体の思考ならびにその固有の意識は、無意識過程のごく微細な部分にすぎず、無意識のメカニズムは思考ではまったく捉えられないものとされた。
つまりフロイトは、彼自身、一つの歴史的な流れの中の結節点として評価される。彼はこの歴史的な流れの中で、その独創性において、普遍的主体(le Sujet)の探究という未知の領域、未知の対象の空白部分に位置する。
彼を生物学の時代の後に位置づけることは、最も精神身体的な(psychosomatique) 治療の考え方に材料を提供する方向で、今でも問題視されている。主体としての人間(sujet-homme) の、世界における存在の最も根源的なレベル、すなわち客体としての肉体(SON corps) に関する生物学的レベルでの人間が問題であり、このような主体の位置づけが厳しく批判される。なるほど、Wo ES war, soll ICH werden というフロイトの著作の至るところに見られる言葉は、古くからの哲学体系によって定式化され、親しまれ、確定された思考形式を具現している。この古いシステムは観念的な(notionnelles)断片化を通して、二元論か一元論か、といったかたちで未だに思考を支配している。
 ところで、ギヨマン(J.Guillaumin, 1987)の言うように、精神分析の思考は理論としては無意味で発展性のないもののように見える。何故なら、精神分析は「ある意味において《反自然》すなわち、人間精神を生み出す心的経験の実相(realite) を知る必要がないという人間精神の傾向に逆らうものであり、主体なしに機能する操作的定義(définitions opératoires) へと対象をドラスティックに還元する手法なのである。
実際、心的経験の実相(realité) に参与しているものは、実は、何よりも主体性(subjectivité)なのである。生物学的実証性にどう義理立てしても、主体性のみが自我(エゴ)ならびにその派生としての非自我(ノン・エゴ) を成立させているのである。そこにこそ、フロイトとしては、欲動、無意識、表象といった、思考過程においてその過程そのものを指し示す特定の限定された概念を掲げる必要があった。そしてその限定の範囲内で、客観化の働き(objectivante)と主観化の働き(subjectivante) が展開するのである。この限定された概念は疑似的概念である。何故なら、無意識を認知するということ、何らかの肉体の中に存在せざるを得ない自我(エゴ)が主体性と一致して働くということ、それは直接与件で結ばれているという意味ではなく、デカルトの《巧みな水夫》が人間自身の内部に存在するということを意味しているからである。〔心身並行論。〕それ故、私たちから見れば、フロイトの生物学的理論モデルには何らかの好奇心を持つけれども、正しくもあり間違ってもいるその生物学の矛盾は、治療における心身二元論とでも言うべきものだ。
しかし、治療と矛盾するこれら限定的概念によって、フロイトは自分なりの方法で(それは過去にフィヒテが称揚し、ヘルバルトも自分なりに解決しようとした)自己同一性(identité)と自我(エゴ)の陥穽を避けようとしたのである。いずれにせよ、もし、この自我(エゴ)による自己同一性という原理が、より根底的に主体(sujet) を説明しただけのものならば、生物的主体と心理的主体の一致の問題を根こそぎ永遠の疑問として残すであろう。自我(エゴ)が肉体を支配するといったイデオロギーに迷い込まないために、自己(SELF)概念とか一元論への回帰とかによって部分的打開が提唱されてきた。
しかし、客観主義者の生物学的思考からフロイトのエピステメーまでの距離を考えなければならない。その距離を把握できたと思っても、《歴史的モデル》によって単にそのパノラマを眺めるだけでは近づけることはできない。

《正しい生物学》と《間違った生物学》、フロイトにおける自我(エゴ)=肉体概念

生物学と精神分析学を関係づけて説明する企ては、決闘にも等しいことだ。そうした企ては一般に二つの道で行われている。
◇ フロイト自身が提示している生物学と精神分析学の間の諸関係を問う道。「生物学はまさに無限の可能性を秘めた領域である。生物学が最も驚異的な知見を提供してくれることを期待する。ここ数十年間に生物学に向けられる問いかけに対して、生物学がどんな解答をするか測りしれない。恐らくそれは、私たちの仮説で固めた人工の建物を根こそぎ覆すほどの解答であろう。」ある人々(M.Reuchlin, 1981)はその時を心待ちにし、またある人々(F.J.Sulloway, 1981; K.H.Pribram/M.M.Gill, 1986)はこの文章を文字通りに受け止めている。
 ◇ 現代の精神分析の発展を最近の生物学の研究成果に照らして考える道。「私たちは再び、神経化学(neurochimiques)の最新の発見が明らかにした《計画》(Projet)に見られる基本概念を検討し、それが如何に現代の知識と結びついているかを理解し、さらに適切な改良を加えたいと考える。」(K.H.Pribram/M.M.Gill, op. cit.)
いずれにせよ、フロイト支持派はフロイトの天才的先覚者ぶりを指摘し、一方では反対派がフロイト過大評価と時代的限界を指摘している。しかし正直なところ、私たちには理解できないこと、論議できないことが多いのではないか。
◇ 何故なら、全てとは言わぬが、既に沢山のことが書かれ、論じられており、それ以上のことは私たちにはできそうにないから。
◇ 何故なら、最近の精神分析や生物学の発展、すなわち両者の盛んな成果を一括して捉えることができない私たちは、残念ながら常に一歩後れているから。
◇ 何故なら、とりわけ、私たちは《道に迷っていると感じている》から。

 こうした気持ちの迷いは、精神分析の治療の隆盛に押されれば押されるほどつのる。治療は、愛、嫌悪、発達、性、進歩、適応、死といった生の意味づけに関わっており、また、理論的な問題というよりむしろ人間存在の問題、幼少期からの問題であるから、私たちの思考モデルに対して疑問を投げかけてやまないのである。それ故、フロイトのように、真実(réel)とまでいかなくても、少なくとも若干でも理解したいと思わざるを得ないのである。

フロイトにおける自我(エゴ)の場

私たちが生の欲動、死の欲動に関する思考を働かせる時、私たちはそこに、自我(エゴ)を対象へと向かわせる他者の斥力といった、捉え難い不思議な思考が働くことに気付いても、ほとんど戸惑いを感じない。... その理由は簡単なことで、私たちは常に科学的な言葉で考えるように仕向けられているからだ。つまり私たちは、心理学(あるいは深層心理学)に固有の空想的言語で考えるように仕向けられているのである。これ以外に、私たちは、今問題としている思考過程を記述することが全くできない。私たちは、そこに科学的用語が介入していることすら気付かないのである。私たちの記述の不十分さは、この心理学的用語の代わりに、生理学や化学の用語で置き換えようとするだけで解消する。生理学にせよ化学にせよ、空想的言語であることに変わりないが、この方が私たちには長年の親しみがあり、それに単純でもあろう。
 そのかわり、私たちの推論の不確かさの程度が増せば増すほど生物科学から借用する必要性が大きくなることを、私たちはよく心得ていなければならない。(S.Freud)

フロイトと生物学との関係は、これ以上には明確に言明されていない。フロイトは自分の推論の意図ならびにその概念化について明言している。
 「推論から言えることは、エロスは生の誕生とともに現れ、《生の欲動》として《死の欲動》との対立関係を形成する。《死の欲動》は非気質性物質が生まれると現れるということだ。このように、誕生から二つの欲動が対立するという仮説を立てることによって、性の永遠の疑問を解消してみたい。」1921年にはさらに、彼の論考の意味を理解するための重要なことを述べている。

 恐らく《自我欲望》の概念の推移の全体像を把握することは非常にむずかしいであろう。私は最初、すべての欲動過程をこのように説明した。それは分かりにくいものであったが故に、自我欲望は、対象へ向かう性衝動とは違うもの考えられた。そこで私は、自我欲望と性衝動を対立させ、性衝動はリビドーの表現であるとしたのである。自我の分析は今後の課題となろう 。《自我欲望》の一部はリビドー的性質のものであり、対象としての個我(le moi propre) を形成するものと考えられることになろう。

 この1921年のノートは精神分析学によってなされた脱中心化の正しい意味を理解するために重要である。精神分析学は、思考する主体に対して、その心理生活は自己意識に還元できるものではなく、その思考は無意識過程によってつくられるものであり、そのメカニズムは思考からはまったく把握できないものである、ということを示すことによって、人間中心主義(anthropocentrisme) の幻滅を完成させた。フロイトはこのノートの中で、彼は最初、生体について集中的に考察していたこと、彼が普遍的自我(エゴ)の分析によって少しだけ主体の問題に近づいたのは第二の時期であること、そしてれによって、私たちの主体性の経験は第二次的で個別的ケースにすぎないこと、などを明確とは言えないが示している。
したがって、フロイトはデカルトと同じく、思考する主体を分けた。しかしデカルトが自我の直接性を演繹したのに対して、フロイトは思考の過程そのものを分けた。無意識層、前意識層といった思考過程は意識する主体にはまったく捉えられない。意識のレベルで捉えられるものは、認知機構と行動において像を結ぶ普遍的自我の幻影にすぎない。したがって、この普遍的自我は、すぐれて普遍的自我=普遍的肉体である。すなわち、自我=肉体でしかないのである。「先に述べた意識する自我とはこのようなものであり、何らかの自我=肉体なのである。」

生物学者フロイト、哲学者フロイト

 フロイトは、生物学なるもの、すなわち生命の論理(bio-logos) の考察、生ないし生体のディスクールを確立した点において哲学者である。生体をその固有の存在様態から眺める時、普遍的自我は、その出発点としての生物学的観点における自己同一性(アイデンティティー) 原理の懐疑性に直面する。したがって自我は常に、別のもの、別様に《述べられる》ものである。それ故、この自己同一性(アイデンティティー) の現れについて生物学的ディスクールに則したイメージを描き、自我が同類のモデルを発達させるというのも言い過ぎである。ヘルバルト以後、こうした自己同一性(アイデンティティー) 原理の提示が、心理学の領域において有力であった。フィヒテは形而上学のレベルで、ヘルバルトは心理学のレベルで、これを行ったのである。そして今でもメタ心理学として残されている。
言うまでもなく、フロイトのディスクールを翻訳することはむずかしい。例えば、この1921年のノートは『自我とイド(Es)』の冒頭部分の直訳の困難さを教えている。フロイトは次のように明言している。

Wir mochten mehr vom Ich erfahren, seitdem wir wissen, dass auch das Ich unbesusst im eigentlichen Sinne sein kann.

このくだりについて、まずヤンケレヴィッチ(S.Jankelevitch)は次のような訳を与えている。「私たちは自我について少しはましな理解 を望む。何故なら、自我そのものが、その用語の固有の意味において、無意識的なものだと言えるのだから。」ラプランシュ(J.Laplanche) の訳文では、もっと意味ありげに次のようにしている。「私たちはもっと自我を学びたい。何故なら、自我そのものが、その用語の固有の意味において、無意識的なものだということを知っているからである。」
ドイツ語の「エアファーレン」という動詞は他動詞であるから、もしこの二つの訳文が正しいとすれば、ドイツ語の文は Wir mochten mehr das Ich erfahren .... でなければならない。しかし、前置詞 vonは由来、出発点を導くのであるから、「自我を学ぶ」とは「自我から出発して学ぶ」となり、恐らくこれがフロイトの真意であろうと思われる。このように、正しい訳としては、自我はその時、無意識的なものと意識的なものをよりよく理解するための手段、視角となる、と理解すべきである。つまり、自我は意味論的な価値を持たないのである。
一方、この文の直後でフロイトが論じているのは自我の問題ではない。

何ごとかを意識するということは、何を意味するのか。それによって意識がどう現れるのか。

フロイトは長々と論を展開してから次のように述べている。

私は (グロデックの区分法) をP.C.システムから出発する曖昧な本質だとした上で、これを考慮することを提案する。これはまず、P.C.S.すなわち自我であり、グロデック流に言えば、自我を持続させるところの心理現象の一部であり、また、I.C.S.すなわちイド(Es)として働くものである。

そこから少し先で、

... 自我はイド(Es)と明確に区別されない。自我はその深層においてイドと合流する。

と述べている。そしてフロイトは再び、性欲の抑圧の分析を通して、この自我とイドの分離ということについて微妙な論を展開する。
したがって、これは単なる翻訳上の問題ではなく、たいへん重要な問題なのである。何故なら、普遍的自我に独立性が与えられており、ありのままにそれが存在するかのように述べることは、フロイト的立場に反するのではないか。 (これは性欲動の抑圧 l'etayageという問題ばかりを大切に扱うこととも通じる。性欲動の抑圧といった訳語は、翻訳者の権威的な連想であるということが分かっていない。) フロイトが自我ならびに自我の意味と機能を論じる時の慎重さは、十分念頭におくべきことである。このような自我とイドといった二元論は、それが繰り返されるたびに、その真の二元的要素よりも、生物学の根底的曖昧さを反映することになるのである。
以上のように、フロイトは生体 (生きた水胞) としての閉じた単子(モナド)、から出発し、超越論的発生(genèse transcendentale)論としての彼の固体発生(ontogenèse)論を展開する。そして、彼の自己同一性(アイデンティティー) 原理としての心的機能の原理は、外部世界への段階的開放であり、心的エネルギーの対象への備給(investissement)を通しての自我と対象との同一運動における創造である。自己愛(ナルシシズム)、性欲動の抑圧(エタイヤージュ)、自体愛(オート・エロティズム)、疑似概念といった怪しげな概念はそこから生まれてくる。これら限界概念は、欲動の対象についての反省的思考力によってのみ《明晰化》される概念であり、「対象を発見することは、深層においてそれを再発見することだ」という明証性に到達するのである。

限界概念か疑似概念か

 フロイトが使用するこれら限界概念の必要性は、まったく明証的である。何故なら、これら全てが、生物学と心的現象の違いを明確にさせながらも、両者を繋ぐ接手としての印を備えているからである。欲動(pulsion) の概念はその一つである。 これは生物学の概念なのか、それとも生物学の疑似概念なのか(ラプランシュ)。疑似的なものであるとすれば、たちまち排除されることになるのは明らかである。とりわけ、自我とイドの対立関係を二元論に属させることによって、《生物学的》な性欲動の抑圧(エタイヤージュ)、という面倒な問題が生じる。そうならないとは言えないのだ。 (R.Kaes: Etayage et structuration du psychisme. 1984 はこの性欲動の抑圧(エタイヤージュ) という問題を特に精密に分析し、異説を唱えている。) 私たちの問題である肉体の修練についても同じく、別の問題がある。これについては、拙稿によって、表象・自我・イドとその概念の接手を明らかにしてある。(G.Broyer: Devenir du Corps et Représentation de soi, These en vue du doctorat d'Etat, Univ. Lumière-Lyon II, 1987. この論文では、すこし性急に、自我ないし Winnicott の Self 概念との混ぜ゙合わせをした。) そこには、伝統的生物学、ダーウィンやラマルクのディスクールとの接点があるのではないか。(フロイトのラマルク的意図については、P.L.Assoun: Introduction à l'épistemologie de Freud, 1981 が゙明らかにしている。) 彼らの究極原因論(フィナリズム)の裏には適応論への繋がりが見られる。 (フィナリズムの裏にある生物学的、生命組織論のディスクールについて H.Atlan: Entre le cristal et la fumée, Essai sur l'organisation du vivant, 1979) 実際、ピショ(A.Pichot)のような著者の仮説をとことん追求すれば、生命体すなわち人間にとって、生物学的にはどちらでも同じことだが、適応ということは、古典的理論が想像していたような、環境の中に単なる有機体があるといった事実ではない。適応は《彼の》環境の定義の中で生命体のディスクールを生産することであり、一時的に主体性 (自我とか動物精気とか) を何らかの表象(représentation)、あるいは表象の複合とかイメージなどによって置き替える必要があるのだ。 (肉体像、二重映しの肉体といった問題について、 J.Birouste: Comment l'Identité ouvre des perspectives au corps.) 言い換えれば人間の場合の適応は、有機体内に現れる視覚的有機体と関係づける必要がある。これが有機体の二重映しということで、治療ではこの仮説が現実のものとなる一方、この視覚的な有機体なるものは、卑近な意味においても役割を果たすのである。
こうした接点やズレについて、ハルトマン(H.Hartmann)の『自我の心理学と適応問題』(1939)は未だに示唆するものがある。
かくして、「生きるために生きる」という、原初的生命体にとって完全なる同語反復であり問題にすらならないことが、人間では「生への愛のために生きる」となり、生への愛のために生きる、から「自己愛のために生きる」という問題にまでなるのである。
これは明らかに、欲動の二元論のレベルでの考察に戻ることになる。生の本能と死の本能の対立とか、もっと示唆的には、生の欲動と死の欲動の対立という問題になる。なにしろこれは、フロイト的推論「喜びの原理を越えるもの」という問題に関わり、生物学としても、単純な論理としても、容易に認めがたいことなのだが、一向に見捨てられていない問題なのである。またもや、生命の論理が、切断、分裂、置き換え不能、名付けの限界、否定の運命といったところへと私たちを導くのである。
 さいごにもう一つの問題は、もっと直接的に、欲動のメカニズム、つまり死の欲動から生じる問題である。これは自己保存(l'auto-conservation) の問題と関わる。生命ある存在の自己形成力としての機構とプログラミングに関して、生物学のディスクールが推敲している裏の究極原因論は、フロイト以前からの心理学の裏のディスクールでもある。なにしろ、治療は毎日のように、人間のこうした自己形成力としての機構とプログラミングの限界を示し、固定化しているのだ。(嬰児の精神的苦痛が虚食症を生むなど。)こうした機構やプログラミングを否定することが問題なのではない。そうではなく、その欠陥についてよく考えることが大切なのである。ラプランシュの少し卑猥な比喩で表現すれば、自己保存(l'auto-conservation)は「虫食いの」「穴のあいた」ものであり、欠陥があるということをよく理解すること、それは《精神=身体的》(psycho-somatique)という概念の至るところに認められることであり、「そうした不連続面の数々にこそ、欲動とか自我とか精神分析的幻想といった概念が滑り込む」ということを理解することなのである。

結 論

面白いことには、歴史的に見ると、精神分析はまさに認識論を侮辱することから生じている。時代の学問は「ヒステリー患者たち」が築いたと、せせら笑うことから生じたのである。とりわけ解剖学認識がそれである。それはフロイトの発見ではない。たしかにフロイトはそれを名言によって表現したが、すでにシャルコ(Charcot) が述べている。ヒステリー性の麻痺は間違った解剖学に由来する。それは神経学に反する全く間違った人体の分解の仕方に由来する。ヒステリー患者の肉体は「表象の解剖学」によって働いている、というのである。治療学の例にみられる「間違った」解剖学、「間違った」生理学、「間違った」生物学、これらがフロイトの著作に満ち溢れている。そして毎日のように、治療ないし民族学的視点から、こうした肉体的なものの「間違い」が発見されている。
フロイトを彼の時代の生物学の中に位置づけ直すことは可能であり(F.J.Sulloway)、それによって、彼の時代、彼の文化の限界の中での科学的世界における彼の真の立場を再確認できる(A.Bourguignon) 。20世紀初頭という彼の時代背景は大発展の時代であった。フロイトは、精神分析でなくても、きっと客観主義者の思考の歩みの中で、何らかの分析的思考にはしり、極端に至らずとも完全なる間違いに陥ったことだろう。なにしろ、分析ということは、意味論の上では排除の意味しか持たないような「間違い」ということを許さないのだ。したがって、こうした思考の歩みは根本的に、精神分析的発想はおろか心理学的思考そのものへと閉塞するに違いない。人間を知るということ、それは何よりもまず常に対象として安住している主体性を知ることであり、それはまた、「ヒステリー患者」「病人」が間違った解剖学の上で機能していることを知ることであるのみならず、小さな人間が「間違った」解剖学、「間違った」生理学、「間違った」生物学の基礎の上に形成され、その肉体は夢によって、大人の心的機能すら抑圧する、ということを知ることでもある。それはスポーツ選手の心的機能すら抑圧する。動物の疑人化(anthropo-morphisme) や自然の疑生命化(bio-morphisme)などが人間の越えがたい心的機能であるとするならば、言葉の正しい意味における科学的認識の歩みは、こうした「間違い」を計算に入れ、精神分析が行ったように、愛憎と性の秩序の調整と《抑圧》を、現代の適応論的な (しかし欠陥のある)生物学の上で解明しなければならないのは当然のことだ。別稿(G.Broyer: De la motivation sportive, approche psychanalytique.)において明らかにしたように、スポーツすなわちパフォーマンス追求もまた、無意識のうちにこうした生物学を応用するしかないのである。