行政の不始末は行政システムの中でしか対応できない。教育という言葉で一括される社会的作用は、実には多様なあり方で競合したり対立したりする行為や思考、あるいは協同したり融合したりする行為や思考であって、それら矛盾する事柄を《教育》の一語で括るような了解の仕方、そして、そうした偶然的で危ない概念に基づいて論議を深めようとするうこと自体が問題であり、漫画である。
 日本社会のみならずグローバル化する世界の多様な社会の中に断片化し浮遊する《教育》の諸相を整理する仕事は、いったい誰がどこでやっているのか?行政は問題を整理する前に特定の命題に基づく新たな問題のフラグメントを準備し続けてきた。
 学校という《ひとつの》教育の現場と、概念整理の責任を担うべき研究の現場がこうした《教育》の曖昧さ故の複雑な作用関係を解明することができるのだろうか?否、解明など無用だ、教育は徹頭徹尾「印象論」でなければならないのではないのか?現場のアナーキーさに可能性があると考える人にもモラル・アイデンティティー(「面白さ」を感じる心)はあるだろうに…。

 新年早々目に入った鼎談記事は、こんなことを考えさせてくれました。

朝日新聞2007年1月5日文化欄 《国家よ》

教育と社会を考える(上)

  新しい年は、日本という国の"戦後"のあれこれに、大きな変化をもたらしそうです。その最初の波が「教育」。未来を担う子どもたちがどんな大人になるのか、その鍵を握る教育への責任を社会はどう果たすべきなのでしょうか。文芸を通じて世相を見つめる斎藤美奈子さん、現役教員として教育論を発信する岡崎勝さん、脱グローバリズムの倫理再構築を唱える佐伯啓思さんに語り合ってもらいました。

自由と平等のはざまで

--- 「教育基本法改正」「必修科目履修漏れ」「いじめ自殺の連鎖」 --- と、世の関心が教育問題に集まっています。

  岡崎 教育が話題になるのは、ほかに話題がないほど平和か、大きなたくらみから目をそらしたい狙いがある。良くない時代じゃないでしょうか。
  昔から子どもはいろいろだったが、携帯やパソコン、高額のお小遣いなど、ツールが変わってきている。陰湿ないじめやけんかもあった。ただ、今は靴の中に画びょうなんかが入っていると、子ども本人は割に平気でも親がすごくショックを受ける。その様子を見て子どもが落ち込む場合もある。
  佐伯 教育には知育、徳育、体育があり、学校では知育はできても、その土台になる学ぶ作法や態度、姿勢といった徳育を教えることはできない。社会や親に、礼儀作法の意識が欠けているのに、学校に求めるのは無理です。
  岡崎 子どもが万引きをしたと相談に来て、最近は「家できちんと指導したので、店へ謝りに行かなくても良いよね」と真剣に言う親がいる。子どものけんかも「悪いのは、うちの子だけじゃないでしょ」。子どもは必ず「ぼくだけじゃない」「何もしていない」「わざとじゃない」の三つを言うが、親も同じようなものです。
  学校に来た母親が、サングラスのすごい風体だったこともあった。外した方がいいよ、と言うと素直に聞く。言えばわかるんです。学校の権威がなくなった分、親にも逐一言わなくちゃならない。
  斎藤 学校は、親と子どもの両方をしつけないといけないんですねえ。

成果主義が招いた格差拡大と学力低下

  佐伯 米国の政治哲学者ハンナ・アーレントが、論文「教育の危機」で、米国の最大の危機は教育だと言っています。子どもが反抗して学校に収まりきらず学力が低下しているが、それは近代社会の当然の帰結だと。
  近代社会は、国民に基本的な共通了解を与える面がある。それが義務教育・国民教育だから、画一的で管理的にならざるを得ない。近代社会は同時に個性と自由を尊重する。どちらも選びきれないし、どちらを優先する方針が良いのか、親も先生も国もわからない。
  学校が「自由に能力を発揮しなさい」となれば、教育の前提を成り立たせる教師の権威を子どもが認めなくなる。子どもだけで世界を作り、教師に反発しない代わりに子ども同士で集団へのすごい同調圧力がかかる。この現状にさらに自由競争を持ち込む教育改革は、事態を悪くする一方です。
  斎藤 いつの時代も「家庭や学校がダメになっている」「最近の子どもは変」と言われるが、その実態をきちんと検証していない印象論です。本当はどうなのか。間違いなく「ダメ」で「変」なのは、前提が危ういまま次の策、次の策と進める教育行政でしょう。
  高校の必修科目未履修が問題になったけれど、70年以降に高校生を経験した人は、ちょっと年齢が違うと学習指導要領が違うので必修科目が違う。これでは親の経験が子どもの教育に生かせない。
  現場の先生たちは「放っておいてほしい」と思っているのではないか。現場を知らない人が印象論で考え、上からの通達でシステムを変えていくという教育行政のやり方はどうなのか。「今が良くないから変える」という考え方自体を見直さなければ、永遠に同じことの繰り返しです。
  佐伯 「ゆとり」と言ってみたり、「学力が落ちた」と戻したりねえ。ただ、文部科学省がころころ指導要領を変えるのは、一つには国民世論の要求だと思う。
  斎藤 世論を吸い上げすぎ。大衆迎合ですよね。 佐伯 一方で、戦後日本に一貫した価値観「自由と平等」をどう両立させるのか、もっと大切な価値はあるのか、学校の権威をどう確立するのか、といった議論は隠され、排除されてきた。

ラング付けを嫌い、きれいごとの虚構

  岡崎 「総合学習」は学校が自立しているとの前提で導入されたが、学校は自立していなかったし自由にやったこともなかった。
  佐伯 文科省は「自ら学び自ら考える」と言うが、教育の本質は価値観を教え伝えることなんだから、それでは教育の放棄になる。これはこの十数年の構造改革で、経済界にも共通する潮流です。
  斎藤 自己責任の論理ですね。当初は様々だった総合学習も、結局均質化してしまいました。
  岡崎 総合学習では、いろいろな現場から外部講師を呼んで、制度化された知を作り替えることもできると思った。しかし、何時間やったかが重視されがちで、評価の対象にもなり、報告書も出させるから、結局、教師の自己規制で画一化する。授業の準備をする時間もないし、教育産業も入るので、教材ビデオを見て終わり、とパターン化することもある。
  斎藤 私は小学生向けの書籍の編集をしていましたが、総合学習が始まった時、そこを狙ってたくさん教材をつくりましたよ。
  岡崎 今の総合学習では「現実」を勉強できない。僕は、老人ホームへ子どもたちを連れて行った。最初は老人がおやつをくれたりして良い感じ。しかし度重なるうちに、なぜ今回はお菓子をくれないのかと子どもが文句を言い、施設から苦情が来て、校長からやめうといわれる。本当はそういうダーティーな関係性から学習が生まれるのに。
  佐伯 かつて住んだ英国では、学校は地域密着で、特色もある。日本文化を教えてほしいと言われ、家内が週1回「折り紙教室」を開いた。学校は地域の集まりの場で、子どもは地域全体で育てるという共通認識がある。しかし日本では、明治期以来、教育が官僚制に組み込まれている。
  斎藤 まず「平等」を重視して、全体の水準をある程度にまで引き上げてきた。そこで、急に「自由」と言われても、途端に格差が広がって学力が低下する。
  佐伯 自由化すれば学力差が生まれ、落ちこぼれが出るのは当たり前。詰め込むと差が目立つから、「ゆとり」で負担を減らす。矛盾を承知で「自由も平等も」と言い出したんだろう。
  斎藤 日本は何でもスローガン政治ですよね。しかも、両立不能なダブルスタンダード。自由と言いつつ、結局は成果主義。お題目と中身が違うことを、子どもはちゃんと見抜いている。

***


  岡崎 情報公開も、親が制度を使い始めて、予想外の影響が出始めた。通知表のための成績帳簿や指導要録が開示前提になり、文科省が「悪いことは書かずに良いことを見つけましょう」と指導し、当たり障りのないことしか書かなくなった。おかげで教員は「親にきちんとものを言う」という初歩的なコミュニケーションを維持することが難しくなつた。
  佐伯 学校も親も一緒にきれいごとの虚構をつくっているのはすごく奇妙。昔から頭の良い、悪いのランク付けはあった。でも運動会では、また別のランクがついた。今はランクをつけること自体をものすごく嫌う印象がある。
  岡崎 現実にはランクがつくのに、つけないふりをするんです。「全員で同じレベルを達成しよう!」ではなく、いろんなモノサシを導入して、競争を絶対化しないことが大切だと思う。
  斎藤 でも入試は点数による厳然としたランクがつく。だから何をやっても矛盾する。
  岡崎 最近は、勉強しない子が沈黙しないで、「いい成績を取って大学行って、良い会社に入っても家庭崩壊で大変」なんて言い出す。学力神話が崩れて、将来という"ニンジン"がなくなり、今まで以上に頑張らなくなった。親も勉強しろとは言わなくなった。
  佐伯 生き方の夢が見えない。高度成長期にはアメリカ並みになりたい、チョコを食べたい、だから勉強しなくちゃという目標が立った。それが達成され、今度は個性を発揮しましょうと言ったとたんに、目標とするモデルがなくなってしまう。小学生で先が見えちゃうと、もうあきらめちゃう。

地域と学校、希薄になったつながり

  斎藤 06年は「小学生パパ雑誌」の創刊ブームでした。年収2千万円、勝ち組の子どもを育てる、という感じで、例えば『プレジデントファミリー』では「難関校に入ったご一家」が紹介されている。冗談みたいだけど、これが売れている。日頃、職場の成果主義に慣らされている父親も、これなら参加できる。勝負は中学受験なんです。受験させたお父さんの手記みたいなのも多い。
  岡崎 僕も『プレジデントファミリー』の取材、受けましたよ!公立小学校の教師なのに、人気教師グラビアに。受験一色ではまずいらしくて。
  斎藤 "箸休め"ですね!子どもが少なくなったせいでしょうけど、世間が教育に関心を持ちすぎ。昔は学校を信頼して任せ、教師を信じ、親がいちいち怒鳴り込むこともなかった。欧米流の「地域と学校のつながり」を持ち込もうとしても、変に日本流と交錯して混乱すると思う。
  岡崎 僕は、教員はできるだけ外に出ようと言ってきた。転任するとまず、つまらない会議を抜けて、自転車で交番と地域のお年寄りとコンビニにあいさつして回る。これで、何かあった時は連絡も入るし、相談に乗ってもらえる。今、漠然とした「地域」には期待できない。
  斎藤 もう「地域」自体が存在しないんですねえ。

朝日新聞2007年1月7日文化欄 国家よ

教育と社会を考える(下)〜鼎談を終えて〜

混乱の中、針路は

再生への「特効薬」はない   斉藤美奈子

  私も含め、世間が教育を云々する時に犯しがちな間違いは二つあるように思います。一つは学校にはだれもが行ったことがあるので、だれもが「私は教育のことなら語れる」と思っていること。もう一つは「教育をよくするには、何か特効薬があるはずだ」と思い込んでいること。
  「私にも語れる」と思った「有識者」が集まって勝手な意見を出し、「特効薬」として編み出されたシステムが「教育改革」に反映されて現場をますます混乱させる。70年代以降の教育行政はその繰り返しだった気がします。安倍政権下で発足した教育再生会議はその悪しき伝統を引き継ぎ、さらに強化させているように見える。この鼎談の1週間後に改正教育基本法が可決成立しましたが、それで何かが好転すると思ったら大間違いで、数年後にはまた新たな問題が噴出するに違いない。
  本気で「教育再生」を望むなら、教育予算を増やし、教員の数を増やすだけでも、事態はかなり改善されるはずです。岡崎さん、佐伯さんのお話はそれぞれ刺激的でしたが、「権威を失ったアナーキーな今の学校が面白い」という岡崎さんの意見には特にうなずかされました。教師が生徒を力ずくで押さえ込んできたのがかつての学校だったとしたら、今は新しい関係が育っている。教育を憂えるあまり、抑圧と従属の方向へ押し戻したくはありません。

「何が最善か」考え続ける   岡崎 勝

  私は、状況が複雑になったら、もう一度原則に立ち返れば良いと思っている。教員も子どもの親も「働く者」「生活者」として、どうつながっていけるかを話したかった。
  教員は忙しい。働く者としての労働条件は劣悪になり、生活者としては精神的な貧しさが増大している。自分の子どもとつきあったり、映画を見たり、新聞や本を読んだりする時間もない生活が、職員室でのゆとりのない会話に表れている。
  子どもへ過剰に投下される「教育エネルギー」が、かえって子どもの力を奪っている現実がある。子どもによかれと思いやることが、実は大いなる勘違いだったり、親による子どもの「私物化」でしかなかったりということは、昨今の競争原理主義の学力論議でよく分かる。
  社会にゆとりがあり、大人が気持ちよく生活できていれば、「子どもは放っておいても育つ」のである。「子どもが苦しく貧しい社会」は、その社会全体が悪くなっているということだろう。
  子どもにこれほどお金をかけない「先進国」も珍しい。この国の教育政策は、大いに批判され、改善されるべきだ。
  私自身、教員である前に、生身の人間で、2人の子の親で、地域の住人である。子どもの声の抑揚を聴き、表情をうかがいながら「何が最善か?」と考え、教員という仕事を毎日淡々とやっていくほかない。

「難題」に教師も立ち往生   佐伯啓思

  教育を語ることは難しい。教育には本質的にある種の矛盾が含まれているからだ。教育は知識を伝達し学ばせる。しかしそのためには、知りたいという欲求と意思、さらには学ぶ態度を植え付けなければならない。
  これは広い意味で徳育と呼ばれるものだろうが、徳育はマニュアルで教えることができない。教えることのできるもの(知育)が成立するためには、教えることのできないもの(徳育)をまず身につけさせなければならない点に教育の困難がある。この難問を一般論で語ることはできない。教育の現場、個々の学校や教師の力量に任せるほかない。現場で教師は、知識の面白さや学ぶ態度を自らの姿勢で示すほかなかろう。
  確かに教育の面白さはそこにあるとも思うのだが、今の教師にそんなことまで要求できるのだろうか。教師のほうも立ち往生しているように見えるのだ。
  「個」の尊重、平等主義、自主性の育成など、どれもがいっそう事態を悪くしている。そこに携帯電話やインターネットや家庭でのしつけの放棄などという社会的条件が重なる。
  こうなると、私などほとんど絶望的な気分になってくる。現場の教育者に同情と敬意を表するほかなくなる。
  唯一の救いは、今回の鼎談で、「現場」を代表する岡崎さんが思いのほか楽観的で、しかもたいへんに元気だったことである。


【論者紹介】

斉藤美奈子 (文芸評論家)

さいとう・みなこ 1956年、新潟市生まれ、成城大経済学部卒。
児童書の編集に携わりつつ『妊娠小説』でデビュー。主著に『文壇アイドル論』 『戦下のレシピ』など。

岡崎勝 (小学校教員)

おかざき・まさる 1952年、名古屋市生まれ。愛知教育大保健体育科卒。
雑誌『おそい・はやい・ひくい・たかい』編集人。著書に『ガラスの玉ねぎ』 『学校再発見!』など。

佐伯啓思想 (京都大教授)

さえき・けいし 1949年、奈良市生まれ。東京大大学院修了。
専門は社会経済学、社会思想史。著書に『自由とは何か』 『倫理としてのナショナリズム』など。