朝日新聞2004年7月20日 火曜日 文化欄《反時代的密語》

  近代オリンピックの制度の成立は、提唱者クーベルタンの文明史観に多くを負っている。西欧の理性はすでにその時期、脱構築の苦悩に逢着していた。一方において、西欧先進諸国の拡張主義・植民地主義の論理を支える近代哲学の思考方法がその最後の輝きを放っていたが、もう一方ではすでに、度重なる戦争の災厄が人間中心主義への疑問、理性の身体による再構築という試みがすすんでいたのも事実でしたね。
  クーベルタンはこうした時代の制度現実と思想現実を嗅ぎ分けながら、ひとつの人間改革の方法を文明史の視野の中で、《オリンピズム》という名の教育ならざる教育を提唱したのでした。スポーツという人間の心を動かす営みは、文明を生成し、発展させ、そして衰退させる…、そうした人間の心の歴史(道徳史)として、クーベルタンはスポーツ史を描いたのです。

  今日の朝日新聞の文化欄にまた、梅原猛の論説が掲載されています。現代の、あるいは21世紀の、オリンピックという制度現実をどのようなものとしてイメージ、構想するか…。西田と和辻という2つの日本的思想生産を簡潔に整理した上で、梅原の東洋的文明史観は、前回の論説と軌を一にする、宗教の多元性(寛容性・抱擁性)への期待を再び呼びかけています。   さて、今回の論説は、とりわけオリンピズムを考える者にとって、何か示唆的なものを含んでいるように思われませんか?現代のオリンピック選手には、一神教より多神教を代理表示する機能がないでしょうか?
  まずは、お読みください。

東アジア文明の語るもの

梅原 猛

  西田幾多郎は、西洋哲学を研究することがすなわち哲学であると考えるほとんどの日本の哲学者に反して、西洋哲学と東洋思想を総合して独創的な哲学体系を創造した。西田は東アジア文明を無の文明として、有の文明である西洋文明に対峙させる。東洋文明を無の文明と考えるのは、西田が実体験した禅仏教の影響であろう。私は西田を高く評価するものであるが、果たして有無という概念で具体的な東西文明の比較が可能であろうか。私には、それはあまりに禅思想に寄りすぎた観念的な文明の比較ではないかと思われる。
  和辻哲郎は『風土』において、日本及び中国などを含むユーラシア大陸の東の文明をモンスーン型の文明として、インドなどを含むユーラシア大陸中央部の砂漠型文明と、西アジアから西ヨーロッパを含むユーラシア大陸の西の牧場型文明と対比する。『風土』には多くの興味深い洞察が合まれているが、問題点も多い。『風土』は(人間生活にきわめて大切な生産や労働の考察を欠き、気候と文化を直接結びつけるが、それで真の東西の文明の比較が可能であろうか。

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  私は、人類は農業を発明することによって都市文明を創ったと考えるが、その農業の性質がユーラシア大陸の東と西では違う。夏に雨の多い東のモンスーン地帯には稲作農業が、雨の少ない西には小麦農業が興った。気候の違いが農業の違いになり、それが東と西の文明の決定的な違いになる。小麦農業は牧畜を伴い、約一万二千年前に今のイスラエルの地で興り、約五千年前、今のイラクの地で都市文明を生んだ。稲作農業も、最近の研究によって小麦農業と同じころ長江中流で発生し、養蚕を伴い、約六千年前に都市文明を生んだことがほぼ明らかになった。
  この二つの文明は、その農業生産の方法によっても思想を異にする。小麦農業は人間による植物支配の農業であり、牧畜もまた人間による動物支配である。このような文明においては、人間の力が重視され、一切の生きとし生けるものを含む自然は人間に支配さるべきものとされる。そして集団の信じる神を絶対とみる一神教が芽生える。
  それに対して稲作農業を決定的に支配するのは水であり、雨である。その雨水を蓄えるのは森である。したがってそこでは自然に対する畏敬の念が強く、人間と他の生き物との共存を志向し、自然のいたるところに神々の存在を認める多神教が育ちやすい。
  西の文明の優位は決定的であるように思われる。なぜなら近代ヨーロッパは科学技術文明というすばらしい文明を生み出したからである。この文明によって多くの人類はかつて味わったことのない豊かで便利な生活を享受することができるようになった。.
  しかしこの文明の限界も二十世紀後半になってはっきりみえ始めた。人間による無制限な自然支配が環境破壊を起こし、やがて人類の滅亡を招きかねないという危惧がささやかれる。そして一神教は他の一神教と厳しく対峙して無用の戦争を巻き起こし、二十世紀に起こった人間の大量殺戮が二十一世紀にはより大規模に起こる可能性すらある。このような状況において、あえて人類の末永い繁栄のために西の文明の二つの原理である人間中心主義と一神教を批判する必要があろう。
  人間中心主義は西洋哲学の発生及びその発展と深く関係している。哲学はギリシャのソクラテス…プラトンに始まるが、彼らは循環する自然を重んじるイオニアの哲学を批判し、人間のみがもつ理性を重視し、その理性の上に哲学を樹立した。この思想はキリスト教に受け継がれる。キリスト教は、理性を人間のみに付与された神の似姿と考え、それによって人間に他の被造物に対する無条件の支配権を与える。デカルトに始まる近代西洋の哲学は、神を棚上げして世界の中心に理性をもつ人問をおく。これが近代科学技術文明の土台をなす哲学となったが、この文明によつて環境破壊が起こった。私は、現代の哲学のもっとも重要な課題は、理性を人間中心主義の思想から解放し、生きとし生けるものとの共生の思想と結合させることにあると思う。

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  一神教の批判はもっと難しい。なぜなら、多神教は人類の原始時代の妄信にすぎず、一神教こそ真に理性的な宗教であるという通説が今なおあたかも真理であるが如く存在しているからである。私は、多神教は、もともと森に住んでいた人類が森の中のさまざまな生きとし生けるものに人間の力の及ばない霊妙なものをみて、それを崇拝することによって興ったと思う。今もなお自然は人智の及び難い霊性をもつていて、多神教の成立の地盤は決して失われていない。また他者の信じる神を認める多神教は、人類の平和共存を図るためにも一神教よりはるかに有効な宗教であるように思われる。
  一神教は、森が破壊されて荒野となつた大地に生まれた種族のエゴイズムを神の意志に仮託する甚だ好戦的な宗教ではないか。この一神教の批判あるいは抑制なしには人類の永久の平和は不可能であると私は思う。

(哲学者、題字も)