朝日新聞2003.9.30.文化欄

 「どっちつかず」という言葉は、煮え切らなさであり、明らかに悪い態度を意味する表現になっているけど、今、日本人であるぼくたちが問われているのは、そうした言語慣行に無批判であり、しかもその慣行にもたれかかりながら、西欧中心主義のグローバル文明を肯定したり否定したり、さもなければ相対化を叫んだりする救いようのない無自覚さなのだ。

 『オリエンタリズム』の著者サイードとは、いったい何者なのか、昨年6月のしげさんの日記に、石井昌幸『フィールドのオリエンタリズム、K.S.ランジットシンとわれわれの帝国』の書評をしたのだが、そのとき、正直いってぼくは、サイードが《オリエンタリズム》に込めた呪いのような含意が分かっていなかった。今日の記事は、そのあたりを明快に説明してくれる。つまり、西欧中心主義の批判的論評は《アイデンティティー》という概念を使用することにすら、すでに破綻があるという、厳しいものなのである。
 

つらぬいた「異邦の異邦人」…エドワード・サイード氏を悼む

大橋洋一(おおはし・よういち)東京大教授(英文学)53年生れ。サイードの『知識人とは何か』(平凡社)、『文化と帝国主義』(みすず書房)やイーグルトン『新版 文学とは何か』(岩波書店)を翻訳。『サイード発言集』(仮題、太田出版)を刊行予定。

 いま彼のインタビュー・発言集を翻訳しているところだったので、この日が来るのを覚悟していても、文字が転写した肉声の主が、文字と同様に死せるものへと転位を遂げた瞬間の衝撃と悲しみは大きい。
 エドワード・サイード氏はパレスチナ問題の解決を訴え、パレスチナ人の声を代弁した人物と報道された。それは正しい。けれども、そこからサイード氏を、テロリスト支援者と連想するのは論外としても、アラブ民族主義者あるいはイスラム原理主義者とありがちな連想をする入は多い。それは、悪意ある曲解でないとしても、まったくの誤解である。
 なぜならサイードはパレスチナ出身だが、ムスリムではなくプロテスタント。十代で渡米し学位を取得し大学教授となり、人種と民族が混在し共存するニューヨークを愛しつつも、民族音楽やロックには関心がなく西洋のクラシック音楽を愛し続けたアメリカ人だつた(日本でお会いし、話をさせていただいたサイード氏は、温厚かつ洗練され紳士的な大学教授だった)。
 またサイードという典型的なアラブ人の姓は、母親が勝手に決めたもの。エドワードという名前もしかり。この二重性、この異種混交性、これこそ、世界を単一の秩序に回収しようと単独行動する「帝国」とも、単一・純血・境界性重視・他国民敵視をめざすナショナリズムからも限りなく遠い姿勢ではないだろうか。

 すでにその現代思想や比較文学の研究によつて、アカデミズムで高い評価を受けたサイード氏が、アカデミズムの内外で評価を高めた『オリエンタリズム』 (平凡社ライブラリー)は、西洋がオリエント(中東)に代表される非西洋を歪曲して表象してきたことを豊富な実例と歴史的視野から論証したものだった。だがその解決は「正しいオリエント」を提示すればいいということではなかった。「正しいオリエント」はナショナリズムヘとつながる虚構物だし、たとえそれを提示したとしても、西洋は非西洋を異物化し差異化する歪曲を止めることはないだろう … 西洋がみずからを東洋とは異なるものとみなす限り、つまり西洋が東洋との間に境界を設けている限りは。

 それゆえ「サイードの主張は、西洋と東洋との間に対立を煽り、境界を設けるもの」という一時期の批判は完全に誤解だとわかる。ヨーロッパとアラブ世界の長い交流の歴史と文化の混交をオリエンタリズムが消し去りアラブ世界と西洋とを遮断する境界を設けたこと、このことをサイードが批判したのだから。境界を設け、対立を煽ったのはサイードではなく西洋のオリエンタリズムなのだ。その境界の立ち上げが西洋の近代植民地帝国主義の成立と軌を一にしていた。

 そして近代以降オリエンタリズムによって分断される西洋とオリエントの大きな歴史は、パレスチナにおいてユダヤ人とアラブ人の間で反復されていたことに、当時、私(私だけではないと思いたいが)は気づかなかった。パレスチナの地で、長い間、対立しつつも共存していたユダヤ人とアラブ人が、イスラエル建国以後、交流を遮断され、最終的にアラブ人消滅をはかるイスラエル政府の敵視政策によって二等市民に格下げされ異物化され隔離されることになる。パレスチナ問題は西洋とオリエントの大きな近代史の縮小版、西洋近代の植民地帝国主義という大きな主題の、凶悪で陰惨な変奏なのである。サイードの学問研究とパレスチナ問題にかかわる政治活動とはだから同一線上で連携していた。

 晩年のサイード氏の著作は、日本でもいち早く翻訳された9・11以降のさまざまな論評を除くと、時間のないことを覚悟のうえでの講演記録であったり、ラジオのインタビュー、あるいは私が翻訳しているインタビュー集であって、二十一世紀のサイードは発言の人、声の人と化している。今年の著作(講演記録)は、ユダヤ人指導者モーゼがユダヤ人でなかったことから、脱アイデンティティーの可能性を考察するものだった。同一化、同一性にこだわる帝国主義でもナショナリズムでもない、新たな異種混交の道。それはまさに私たちひとりひとりを異邦人と化すよう促すものだった。異邦人として自国を認識し、認識を声にだす希望と勇気。「異邦の異邦人」としての生涯をつらぬいたサイード氏の声をいかに文字から読み取ってゆくか、それがこれからの私たちの課題だろう。冥福を祈りたい。


注) サイードの各種論著・発言の解説としては翻訳家中野真紀子氏のサイトRUR55が充実している。