サッカー解説「高い身体能力」って何

山本敦久(筑波大学大学院博士課程、スポーツ社会学)

 ピッチ上で繰り広げられるサッカーの技芸を言葉に置き換えながら、友人らと試合展開を予想したり、試合後に熱戦や凡戦を繰り返し振り返ったりすることは、サッカー観戦の醍醐味の一つだろう。今回のW杯を契機に、サッカーを語り、好きなチームをサポートすることで見知らぬ人々と語り合える空間の楽しさを知った人も多いはずだ。  ところが先日、タクシーの中で運転手さんとサッカー談議で盛り上がっていた折、ふとした一言で楽しい会話の流れが途絶えてしまった。
 彼は「ブラジルに勝つことができるのは、セネガルのような高い身体能力を持ったチームしかないでしょう」と私に投げかけたのだが、私にはこの「高い身体能力」という言葉の意味するところを彼と共有することができず、返答に詰まってしまったのである。
 「身体能力」という言葉は今回のW杯期間中、テレビの実況解説や新聞記事や雑誌の読み物の中で頻繁に使われている。
 しかし、この言葉が用いられた途端に解説は曖昧となり、私たち視聴者や読者は混乱してしまう。私たちが知りたいのは、「身体能力」という言葉によって単純化されてしまうピッチ上の複雑なプレーや戦術の内容だからである。「さすがに、高い身体能力のなせる技です」「セネガルは、持ち前の身体能力で8強に進出した」などと解説されても、私たちには解説者と何ら共有できるピッチ上のプレーのイメージを抱けない。
 いまやこの言葉は解説者の専門用語であることを越えて、日常のサッカー談議の中でも頻繁に使われる。サッカー技芸の複雑さを語り合うことの楽しさが、この四文字熟語の氾濫によって閉塞させられてしまっている。
 問題はそればかりではない。より深刻なのは、この言葉によってプレーや身体が言い表される時、意識的、無意識的とを問わず、そのプレーの視覚的表象にあらかじめ人種(差別)的な認識の枠や境界線が引かれているということだ。「高い身体能力」の持ち主である選手やチームは必ずと言っていいほど黒人選手やアフリカのチームである。
 ドイツのゴールキーパー、オリバー・カーンのセービングや、イングランドのデビッド・ベッカムの右足が放つキックは、なぜ、「高い身体能力」の現れと見なされないのか。
 カーンは「ゲルマン魂」という言葉によってスピリットの側に置かれ、黒人選手は「身体能力」という言葉で身体の側に置かれている。しかも、ここで引かれる「スピリット/身体」という境界線は、「白人/黒人」「ヨーロッパ諸国/アフリカ諸国」という境界線と重なっているのである。
 黒人選手のプレーを無邪気に称賛する「高い身体能力」という言葉は、その裏返しとしてプリミティブで野蛮で文明化されていない身体という意味を繰り返し生みだし、その意味に占拠されたプレーを見る視覚は、再び、黒人選手のプレーの表象を身体の能力に還元していってしまう。人種の線によって、あらかじめプレーを語る言葉を枠づけてしまうのであれば、私たちは4年後のW杯のピッチ上に、新しいシステムやプレースタイルの出現を見ることなど到底不可能なのではないか。

(朝日新聞2002.6.30.オピニオン欄)


【読後感】 ローカルな身体、身体のグローバリゼーション

 W杯サッカー決勝戦を向かえる日、上記のような論考を読んだ。
 結局のところ、野蛮・文明の二項対立によって、論旨はきわめて明快に整理されている。そのためか、はたして「高い身体能力」の用例が、筆者の主張するように明確に現場で使い分けられているかどうかについての、論証が主張の背後に隠れてしまったように思う。むしろ、このような二分法は筆者から生み出された差異化の言説であり、解説者やアナの頭には、そのような意図的な用法の区別はないというべきではないだろうか。
 W杯は、サッカーという同じ一つの技芸のコンパクトな空間の中に、さまざまな身体のあり様を提示してくれた。共通のルールの中で激しく動き回るそれぞれのローカルな身体の技法を目にすることができたと思われた。
 しかし、このレベルで活躍する選手たちの生活は、ほとんどコスモポリタン的なものであり、同じプロ・チームの仲間たちがそれぞれの国の代表としてプレーしているにすぎないのである。まるで日本の国体選手みたいに、ローカル・アイデンティティーを借用した存在になっている。彼らはW杯が終っても国には帰らない。このことは、見ている者だれもが熟知している事実である。彼らのプレーは技法の質において価値づけられており、たがいに技法の等質化を達成しているがゆえにプロ・チームと契約することができる存在である。彼らの身体はこの意味において技法の究極での差異化へと向かっている。生まれた地域、肌の色、先進・後進といったローカリティーは、彼らの身体には当面、まったく視野の外におかれている。鑑賞者としてのぼくもまた、そうした問題を彼らの身体に求めることなく、サッカー技法の空間に躍動する共通の身体性をのみ凝視していた。
 身体のグローバリゼーションはすでに、一流のプレーヤーの身体によって代理表象されていると考えた方がよいのである。にもかかわらず、筆者のような眼差しが可能であるとすれば、それは「身体能力」という科学的な響きのある言葉が捉えられない、科学的普遍性を拒否する何かを、暗に求めているからではないのか。筆者が繰り返し述べているように、科学的身体能力が高いから技術が高いと思い込むのはたしかに間違いだ。ひとりひとりのプレーヤーを特色づけているのは、高い身体能力じゃなくて、それを駆使する技法であり、技法の中にこそローカリティーが潜んでいる。このことは、マイクの前の人間たちにも十分すぎるほどわかっていることなのである。それでもなお、この言葉を繰り返し口にするのは、技法の差異をもたらしている何ものかについて、いぜんとしてほとんどまったく分からない(分かろうとしない)からと言うしかない。
 ぼくの読後感としては、筆者の展開を受けて、さらに、かくも精緻にグローバル化されている身体を眼差すおのれの意識を徹底的に分析し、いかにしてもグローバリゼーションを免れている身体のローカリズムについての論述を展開して欲しいということだ。