1912年、オリンピック競技ストックホルム大会における芸術コンクールが予告されていた。文学部門の金賞は『スポーツへの頌歌』に与えられた。この作品はドイツ語とフランス語で応募され、それぞれM.エシュバッハ、ジョルジュ・オローの作品であった。後にこの匿名の作者はクーベルタンであったことが判明した。
スポーツよ、神の逸楽よ、命の精髄よ、近代生活の辛苦がただよう薄暗い森のよどんだ大気の中に、お前は突如として姿を見せた。あたかも消え去った時代の人類が微笑んでいたあの太古のまばゆいばかりのメッセージのように。山々の頂きにはオーロラがきらめきたち、その光の筋は、樹木の暗い影に覆われる地上にまだら模様をつける。
スポーツよ、お前は美だ。お前こそ人間の肉体というこの建物の建築者だ。邪悪な情念によって駄目にされ見下げはてた姿ともなり、努力によって健全に陶冶され崇高な姿ともなるこの建物の建築者だ。いかなる美も均衡と比率なしにはあり得ない。そしてお前はその両方の比類なき主人なのだ。お前は調和を生み、動きのリズムを刻む。お前は力に品を添え、しなやかさに強さを与える。
スポーツよ、お前は正義だ。人間たちはその社会制度の中でいたずらに完璧な公正を追い求めるが、お前の身近には、おのずからそれが厳然としてあるのだ。跳ぶも走るも誰一人、一センチ一分たりとも超えることはできまい。人間の身体と道徳の融合した力だけが、その成功の限界を知っているのだ。
スポーツよ、お前は果敢だ。筋肉的努力の意味はすべて、敢行ということに尽きる。敢行するのでなければ、筋肉が何の役にたつというのか、早く強くと思うことが、敏捷さと力を鍛えようと思うことが一体何の役にたつのいうのか。だが、お前が鼓舞する果敢さは、一かばちか自分の山を当てようとすべてを賭ける山師の心をかきたてる蛮勇などかけらも見られない。
スポーツよ、お前は名誉だ。お前の授けてくれる称号は、それが絶対の誠実さと完全な無心さにおいて得られたのでなければ、何の値打ちもない。密かな企みのいくつかによって、自分の友を騙すことができた者は、そのことで自分の心の奥底に恥じの苦しみを持つ。受けた過分の称賛がバレはせぬかと、自分の名に連ねられる不名誉な言葉にびくびくする。
スポーツよ、お前は歓喜だ。お前の呼び声に、肉は躍り目は微笑む。血は溢れ駆けめぐり脈を打つ。思考の地平は明るく澄みわたる。悲しみに打ちひしがれる者たちにすら、お前は有益な苦悩の消散をもたらす。また幸福な者たちには、生きることの幸せを満喫させる。
スポーツよ、お前は豊饒だ。お前は民族改善のための品位ある手段を直接もたらし、病弱な種を破壊し、民族の純粋さを脅かす遺伝的欠陥を鍛え直す。そしてお前は、競技者がその周囲に機敏で強健な息子たちの育つことを望み、自分のあとの競技場を継いで、次に彼らが喜ばしい桂冠をかちえることを望むよう、競技者を励ます。
スポーツよ、お前は進歩だ。お前に立派に仕えるには、人間はその肉体とその心を改善しなければならない。お前は人間に高次の衛生法の遵守を課している。人間はお前のためにあらゆる行き過ぎを慎まなければならないのだ。お前は人間に、その健康のバランスを崩すことなく最高の強さをその努力に与えるという賢明な規則を教えている。
スポーツよ、お前は平和だ。自ら制御し組織し支配する力の儀式の中で、お前は諸国民の間に豊かな関係を作り出す。お前によってこの世の若者は、互いに尊敬することを学ぶ。こうして国々の資質の違いが寛大で平和な競争心の源となる。